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mein Wörterbuch


2003年、当時の最新として購入した20年前の電子辞書(独和/和独入り)に、2023年7月、再び電池を入れる。


18歳には高級な買い物だった。

大学の生協で悩みに悩んで買ったことを覚えている。


当時の私は不満だった。

私はフランス語を学びたくて(卒業後に渡仏しパリコレでヘアメイクする人になるという夢のため)志願していたのに、合格通知に書かれていた私の専攻語はドイツ語だった。


外国語学部の専攻言語の授業は週に5コマ程度はあった。


全く新しい言語をゼロから習得するのに必要な最低時間。

もちろん全てのクラスで毎回宿題も出た。

成績優秀ではなかったが、こなさなければ進級も卒業も許されなかったので、仕方なくそれを4年間続けた。


必修は専攻語だけではなかったし、当然総合科目も取らなければならなかったし、教員免許取得のためのプラスαの単位も取得していた。

生活費はアルバイトで賄っていたために、授業以外の時間は働いていた。


ドイツ語が自分の大学生活の中心となってしまったことは大変不本意ではあったが、学校を途中でやめようという思いは一度も浮かんだことはない。


同時並行でフランス語もやってやる!と意気込み、副専攻語の2か国語取り(英語&仏語)をトライしたこともあったが、全くゼロから二つの言語を同時にマスターしながら英語もそれ以外も取り組むことは私には不可能だったので仏語は諦めた。


(それでも美容業界への想いは断てず、クラスメイトが休学を取りドイツへ留学する一年、私は同じタイミングで休学し日本でヘアメイク専門学校へ通った。その学費のローンを20歳で組み、10年ほどで払い終えたのだっただろうか。。)


中学を卒業する時には既に、美容師やヘアメイクさんになりたいと思っていた。(自分へのコンプレックスから)

そのため高校は周りの大人達から勧められていた進学校へは断固として行かず、制服が可愛くて、英語が好きだったので「国際」と名前のつく響きが良さそうな科がある偏差値も低くはない学校を選んだ。


だが、進学校ではなかったことで逆に勉強ができる環境へ進みたいと思い、悩んだ挙句最後の最後で大学進学を目指すことにした。



高校を選ぶときに父に言われた通りだった。

認めたくなかったが、実際まさにそうだった。

最下位でもいいからトップ集団にいろというようなことを彼は言っていたような気がする。


高3当時の私の周りは半分は就職、進学する子も専門学校や短大への推薦枠入試が多く、皆早々に進路を決めていた。

その年、同じ高校(約40名×8クラス)からセンター試験を受けるのはたった5名だった。

そのうち3人は推薦で地元の大学を決めている記念受験者だった。



私の空耳や妄想でなければクラスメイトたちは私に聞こえないように卒業旅行の話題で盛り上がっているようだった。

その頃私は1番前の席だったが、受験科目以外の授業では堂々と受験勉強をした。

除夜の鐘を聞きながらでも勉強をしなさいという亡き元担任の言葉にも素直に従った。

大好きだったL'Arc〜en〜Cielの出演時間を楽しみに、ラジオと共に毎晩勉強した。


それでも進学校で三年間積み上げてきた人達の学力に到底及ぶわけがなかった。

偏差値なんてよくわからなかった。

1、2回受けた模試もほとんどE判定だった。

国立大学に入るなるなんて今考えたら無謀だった。

でも、その数字の意味や価値を知らなかったから、無謀とも知らずに願書を出した。


大学経由でパリコレのヘアメイクになるんだと思っていたが、受かったのはドイツ語。

それでも他に受かっていた英語の勉強にはとても力入れてそうだけど学費が高く名前もはじめて聞いたような大学へ行くより、国立の外国語学部に行くことを親は勧めた。

自分はビリでも意識の高い集団へ、が身に染みてわかった私も当然そうした。


でも最後までドイツとビューティーの結びつきは私の中では見つけられなかった。


大卒で海外へ出るのは諦め、日本で美容業界へ就職する道を選んだ。

販売員なら大卒の意味がないからと、化粧品会社の本社オフィスでマーケティング部みたいなところに入りたい!と化粧品会社のみに絞って受けた。


こてんぱんにされた就職戦を経て、なんとか化粧品会社へ就職できたものの、思っていたような大手へは入れなかった。

アイライナー一本を武器に棚をくださいと頭を下げて回る日々。

ヘアメイク専門学校にダブルスクールした経験も役に立つことはほとんどなかった。

お給料も安かった。

何よりも根性論しかない戦略に辟易した。


そこにいた2年程先輩の女性に、気持ちはわかるが2年は続けたほうがいいと言われ、その言葉を胸に、2年ぴったりで次の会社を決めて辞めた。


科学的根拠を求めて製薬業界へとフィールドを移した。

とは後付けで、新卒の時に化粧品会社に絞ったのが失敗の元だと思っていたので、大手に入れるなら業界はどこでもいいと思っていた。

たまたま引っかかったのがそこだった。


エビデンスベースで医学薬学生理学を学べることは大変興味深かった。

文系脳なので当初相当な困難を極めたが、勉強は楽しかった。

美容大好きだったので、健康のことには興味があった。

巷の情報に根拠が示せることと根も葉もない噂レベルのものが検証できるとわかって目が輝いた。

大学受験か、それ以上に勉強したかもしれない。


でもドイツ語は一切使わなかった。

今や論文をドイツ語で書く医者などいない。皆、英語。

カルテという言葉が、カードや地図などを示す女性名詞のドイツ語から来ているとわかるくらいのもので、時々医療業界にはその呼び名で面影が残ってはいるが、ドイツ語は知らなくても関係ない。


当時の私は久々の友人と食事との食事の席でも、ネイルサロンでもヘアサロンでも、いつも会社のパソコンを広げるほど、常に追われていた。

可もなく不可もない業績で、生意気なお給料を頂いていた。


出過ぎる杭も出なさすぎる杭も打たれるかほじくり出されるので、とにかく目立たぬようにそこそこを努めていた。


勉強は楽しかったが、医師に担当薬剤を処方してもらえるようにプロモーションするというセールスとしての役割にどうしても徹することができなかった。

医局に立っても、前を通る医療関係者を見送るばかりだった。

自分の業務に疑問を覚えるばかりで、不平不満悪口ばかりだった。

素晴らしい環境を与えられていたが、感謝という文字は知らなかった。


同時に自分の女性としての人生を同世代の女性たちと比較しては落胆していた。

歳をとるのが怖かった私は、20歳になった時、30歳になったら死にたいと思っていた。

どんどん重ねていく年齢に焦っていた。

見えない何かに怯えていた。

若いママになりたかったが、それはとうに過ぎていた。


会社で求められているものと、自分が求めているものが大きく乖離していた。

他人に映る自分と、自分の思っている自分も同様だった。


それらのギャップを埋めることができなくなり、徐々に苦しさは増し、担当領域や上司や会社や家を変えても解決せず、いつしか全てが頭打ちになった。

もがけばもがくほど息ができないような感覚に陥っていた。


そんな時、用意された一つのルートがドイツだった。


知り合いの知り合いの方が、ミュンヘンで日本食レストランを経営なさっていた。

その方が一時帰国されていて、一緒にお花見をするという時に誘われた。

大学でドイツ語専攻だったよね?お話ししてみたら?という軽いご提案だった。


「ドイツ語やって、ドイツには行ったの?」 

「いいえ、一度も」

「今いくつ?」

「29です」

「ワーホリビザ取れるじゃん。うちで働いてみたら?」

「‥?え、この歳で今更ワーホリ?」


その時は、同じ製薬業界で転職を決め、引越しの直前だった。

もう少し早く出会えていれば退職金を丸々持ってドイツへ行けたのに、とも思いながら、せっかく転職したし、天職と思うかもしれないし、東京で仕事もしてみたいし、新規部門の立ち上げメンバーだし、自分にとっても新しい領域だし、と意気揚々と引越しをした。


が、うまく行かない理由をいつも外部要因のせいにしては不平不満たらたらだった私は、結局すぐに絶望の淵に立つ。


31歳を迎える3日前、広尾のドイツ大使館で申請し、ワーキングホリデービザ(申請条件年齢18〜30歳)を取得した。


全てを捨て、住民票も日本から抜いて、逃げるようにドイツに移り住んだ。

その人のところに行けば職探しも、家探しもしなくて良さそうだった。

日本で仕事を辞めてフリーターをする勇気はないが、外国に行くならなんとか格好がつくかもしれない!と、海外で1年暮らすには不安な金額しかなかったが、自分の人生をそこに全部BETした。


かなりのギャンブラーだ。

それくらい、八方塞がりだった。


ミュンヘンでの1年で、この電子辞書は再び活用された。


英語やドイツ語の語学学校に時々行きながら、スタッフ全員日本人の日本食レストランでアルバイトをさせてもらい、まかないを頂き、その2階で暮らし、時々お金の様子を見ながらヨーロッパの一人旅をしていた。

EU圏内はワーホリパスでスルーできた。

イギリスのEU離脱決定のニュースはミュンヘンで見ていた。


1年あれば何か見つかるかもしれないという他力本願で逃亡するも、何も見つからないまま、内情ブラックだった飲食店のバイトにほぼ費やしてビザ満了で帰国。


つまり、私は人生の大きな賭けに負けたのだ。






20年経った私の電子辞書は、もうキーが黄ばんできている。

今は電子辞書の液晶もきっとカラーなんだろう。

音声入力なんかができたり、wi-fiに繋げたり、タッチパネルだったりするんだろうか?


もうこんなタイプの電子辞書は誰にも使われていないのかもしれない。

でも、電池を入れ替えたら起動してくれた。


辞書としては十分に使える。

今はスマホでも調べられるが、電波に依存するし、携帯では余計なことも見てしまう。

やはりさっと調べるなら純粋な辞書が早いし語学に必要な情報が多い。


私は今、再び大学にて講義を受けている。

母校だからということも手伝ってか、履修登録できるまで話が早かった。

総合大学はいい。


今はインド哲学を学ぶために、まずはその文献を原文で読めるための基礎を叩き込む段階のクラスに出ている。


その基礎として、サンスクリット語を理解することが大前提としてある。


古代インド語であるサンスクリット語は、インド・ヨーロッパ語族に分類されるものの中のでも古い言葉である。

ヨーロッパで話されているような英語・スペイン語・ロシア語などと古くまで遡れば一つの源から分かれ出たものであると考えられている。


そして、そのサンスクリット語を本気で理解しようとするためには、ドイツ語がほぼ必須となるのだそう。

私は現時点ではまだドイツ語が必要なレベルまでサンスクリット語を習学していないが、写真にあるように、サンスクリット語の辞書はドイツ語のものが多いようだ。


Wörterbuch とは英語で言えば words + book で、つまりdictionary 辞書。


私は20年前だが一応卒業できる程度にはドイツ語を舐めたし、日本人とばかりつるんでいたが、一応ドイツにも少しだけ住んだ。

流暢に扱えはしないが、基礎的なことなら何となくまだ覚えていることもある。


人生の賭けに負けて大損した。

確かにそうだった。


でももしかしたらそうでもなかったのかもしれない。


ドイツまで行ったところで、何者にもなれず、自分が何者かもわからないまま、貴重な1年を無駄にして、それまでのキャリアも全部手放したのに、手ぶらで帰ってしまった。


帰国しても、何もやりたいこともなく、製薬業界にも戻りたくはないけど、戻ったら安心安定の生活ができるんだろうか、と未練たらたらではっきりせず、こそこそ隠れるように数年を過ごした。

さらに数年無駄に歳をとった。


コロナきっかけで押し出されるように開業してからも、経営はうまく行っているわけではない。

覚悟は決めたが、まだ思うようにお金が回せるようになってはいない。


それでも良かったことは、「私は私を信じてみる」と決められたこと。

腹を括ったこと。

以前は何よりも一番自分のことが嫌いでならなかった。


見えない何かに、いつも怯えていた。

それが何かもわからないのに、いつも怖かったし苦しかった。


完璧に見える周りの人々に比して、自分の不完全さが許せなかった。

何もないままただただ衰えていくことが恐怖だった。


不完全で完璧。

愛されているし愛したらいい。

それを知るまで、長くかかった。


私の場合はその扉を開いたのはヨガを通じた教えだった。


自分を信じると決めた私は今、国内屈指のヴェーダの専門家の研究室にお邪魔させてもらえている。

そうとは知らずに門戸を叩いた。

こんな奇跡があるだろうか。

1年更新の仮部員という感じだが、そんなのは何だっていいし、むしろ気軽で好都合だ。


20歳前後の私には地味で辺鄙で閉鎖的で、社会に出るまでの一時的な避難をするためだけの場所のように見えていたが、20年ぶりの大学はまさに学びたい人のための最高に最高の場所だと感じる。


インドへ出向いて西洋人から英語で学び半分理解できないまま体調を崩して帰ってくる、なんてこともしてきた。

その方も当然プロなので、それも大変良かったが、自宅に住み仕事を続けながら母国語で得られる最高の教えを乞えるのだ。

こんなにハッピーなことはない。

しかもヨガに留まらない、それを包括したヴェーダそのものの専門家に。

ヨガはほんの一部でしかない。


アーサナ指導に必要な解剖学を学ぶ時も、ヨガ講師から学ぶより、理学療法士やスポーツトレーナーや鍼灸師など、より大きな視野を持ちながらもヨガへの敬意と理解を持ってくれる人から学ぶのが私は好きだ。


私は現役大学生時代、独語と仏語と英語の3本立てをトライした結果諦めたが、今研究室にいる学部生は、英語と独語とサンスクリット語を並行して学びながら、当然それ以外の単位も取得している。(若者たち優秀すぎやろ)


私の場合は仕事(つまり生きる哲学であるヨガの実践)をしながら、実践者に師事しながら、研究者にも師事できることになった。

実践の先生と研究の先生、両方がいる上に、アウトプットのフィールドである私自身の仕事もあるので、机上の空論で終わるはずがないし、終わらせないと決めている。


「何でも本物に触れろ。」

父はいつもそう言っていた。


いつも父の言う通りになるのは悔しいが、いつもその通りになってしまう。


何でも本物が見たいし知りたいし本物から学びたい。

書いていて気が付いたが、私の学びのベースはいつもそこにあるようだ。

そして父への感謝で涙が出てきた。(感傷おばさんw)


そのためのお金は心配はするもんじゃないという教えもしっかり受け継いでしまっている。

今は当然支払いも自分なので、工面に難儀することもあるが、それでも本物の学びに変えられるものではない。

必ずその金額以上のエネルギーとして返ってくると信じるやるのみ。


私は本物から学びたいし、どうやら、神様は私を本物の場所へ連れて行く道ばかり用意している。


うちの家系はそもそもプロの多い家系であった。

お華もお茶もピアノも英語も一流の先生ばかりいる。

何者でもなく何もできない私は、それがプレッシャーで親戚陣が怖く、もったいない事にあまり近づかないようにしていた。

音大講師のおばにピアノも習っていたし、ショパンあたりまで曲を貰っていたと思うが、とにかく毎週嫌で嫌でピアノの時間は恐怖でしかなく高校進学を言い訳に辞めてしまった。(今思えば、このピアノの習得システムはアシュタンガヨガのやり方と同じだ)


望めばいつでも、真理を追求するための道はすぐそこにいくつも用意されていたのに、灯台下暗しとはまさに。


そんな私もヨガをしたらインドへ行かされてしまうし、アシュタンガヨガをすれば、アシュタンガヨガの継承者に会いに行かされてしまうし、ヴェーダを読みたいと思ったら日本を代表する名研究者のもとへ連れて行かれてしまうし、ドイツ語をちゃんと学びきれてなかったな〜と思っているとドイツへ住まわされてしまう。


いつも最高の環境が用意されてしまう。

覚悟を決めて本場で本物から学ぶしかないのだ。


父も、高校生の私に海外のホームステイに行かせることを喜んでくれていた。

本人は喋れないのが恥ずかしいし、お金を出してもらってるのに上達しないプレッシャーに負けてしまい苦しいので全然行きたくなかった。

1年目は渋々行ったが、2年目以降は逃げ切った。

そんなこと考えずに毎年楽しんで行かせて貰えば良かったと今となっては思うが当時は苦痛が上回った。


成果主義の社会に生き、目にみえる変化が喜ばれる中で、成果を成すためではなく、ただ行うことは容易ではないかもしれない。


自分がやりたいと思ったことをやればいい。

自分にやれる範囲でやれる方法を考えればいい。


やりたいことがなくてもいい。

目の前のことに感謝して懸命に取り組めばいい。


嘘をつかず見栄を張らず正直にいたらいい。


本当にただそれだけだった。


正解も間違いもない。


日々自分を信じて積み重ねていれば、突然大きな賭けをする必要もないが、自分で予想していなくても目の前に現れたなら乗ってみるのもいい。

運命のルートかもしれない。


自分の選択肢の中にあるもので決める人生は、自分でわかる限られた範囲のことしか選べないので、頑張ったつもりが結果的に自分を狭めてしまうかもしれない。

いつも周りばかり気にしてキョロキョロよそ見をしていたら、自分の目の前に現れているものにも気が付かずにスルーしてしまう。


私は初めから縮こまって遠回りすることも含めて、再びこの辞書を使う人生に設計されていたのだろうかとさえ思う。

逃げて逃げて逃げてきたことも予定調和で、全部踊らされていて、そこからの気付きや学びを得なさいということだったのかと。


今まで頑張って頑張って自分で吟味して武装して戦って勝ち取ってきたつもりが余計に苦しんできたことを考えると、絶望の淵に全て手放し降参して右往左往することをやめてからの事の決まり方、進み方のスムーズさには驚かざるを得ない。


この研究室へ入ることのスムーズさったら。

一体全体、世の中の受験システム無視しすぎの楽勝モードでどうなってるの??

入りたくても入れない人が山ほどいるのでは??


そもそも進学校ではない我が校から、自力受験で浪人もせずどうやってその大学入れたんですか?って教育実習をしに高校に戻った時に校長に聞かれたな。笑


変な知識なんて時に無い方がいい。

自分を制限してしまうくらいなら、枠なんて知らない方がいい。


進学校では無い学校に行くことで、無謀な大学を受験できた。

フランス語では無くドイツ語だったことによって今サンスクリット語の学びがスムーズに迎えられる。


その時から決まっていたんだろか。

とも、今なら思えるけど、渦中にいる時は思えなかった。


いつでもジャッジメントせず、目の前のことを結果に執着せずにでも手を抜かずにやる。

本当はそれだけでいい。


大人になるにつれ、本質ではない知識や欲望を覚えた私は不平不満たらたらで、できない理由を探してはやらない道を選んできた。


そうして破綻したことで、常に最新鋭を求める生活から、古き良き伝統を学び伝えるという生活へ。


鎧のように隙間なく重ねていたメイクはさっぱり辞めてしまい、言い訳を探す暇があるならあるものの中でやれることを探すようになってきた。


そして今度は経験から得たことをみなさんにシェアすることできっかけを蒔く。


私が救われたインドの哲学が、ヨガが、リラクゼーションを通した気付きが、同じように救いになる人が少なからずいると確信を持っている。


委ね受け入れることの第一歩はリラックスして解放すること。

だから、リラクゼーションもうまく利用して頂きたい。

それは受け取る練習であるから。

リラクゼーションも当然本物を真剣に学んでいる。

道はまだまだ。



これからの人生、私はどこへ行くのだろう。

歳を重ねて経験を重ねるのが楽しみ♡と思うような日が来るなんて。

あれから20年も経っただなんて。



久しぶりに電子辞書の電池を入れただけのこと。


I'm greatful for life.

I'm loved.

I love all, serve all, accept all.

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