もうこれ以上、自分に厳しくしたくないんだ!心地よくいる。それだけでいい。
- Sary

- 1 時間前
- 読了時間: 4分
久しぶりにゆーっくりヨガをしていて、どんどん体が解放される感じがしてきて、
心地いいな〜。私にはやっぱりヨガの時間が必要だな〜。と思うと同時に
アシュタンガを毎日ゴリゴリでやっていた頃は
体を躾けるようなつもりで、ヨガをやっていたなと感じた。
先生もそうやって言っていた。educationだと。
先生の真意が何を指していたのかは置いておくとして、私は「体は教育するものだ」という意味で受け止めていた。
先生に気に入られたいばっかりに、先生のYesマンになっていた私は、
「それは体のためじゃない」って言われた時も、「はい。そうなんですね。善処します。」って受け入れて、敬礼してた。(心の中でねw)
それが、導きを受け入れ、明け渡すことだと思っていた。
今ならわかる。
私の身体の意見は、私が聞く。
アシュタンガのルールがどうであれ、私の身体なのだ。
自分の3次元、魂の器である肉体との対話と、自分の6次元、個としてのアイデンティティが存在するギリギリ最上位でワンネスと繋がっている魂との対話は、相手が誰であれ、手放しちゃいけないんだ。
親だって、我が子だって、上司だって、お客様だって、尊敬する先生だって。
私が私のためにできることって、それしかないんだ。
自分のエゴをコントロールするために、まず体からコントロールして、教育していく。
それこそが、人として「清く、正しく、美しく」あるべき姿なんだって、私は長年信じてきた。
アシュタンガヨガのシークエンスは決められていて、身体にとって、そして心にとっても、好きや嫌いを乗り越えて行くのに、アシュタンガは非常に有用であると。好きや嫌いを超えた先に、得るものがあるんだと。
それに激しく共感していた。
自分の好みなんかで選んでたら、どんどん偏って行っちゃうしな!!って。
とんでもねーな。笑
そりゃ怪我するよな。笑
無理にやらせて、怪我して教えてくれてるのに、それでもやらせる。
やるにしても、程度ってもんがあるでしょう。って感じだけど、私、ストイックは得意なので、それは乗り越えるものなんだと受け止めて、「ケガと向き合いながらでも練習を怠らない自分」っていうものに自分で自惚れて、逆にどんどんエゴの強化をしていた。
当然、その時は、無理にやってるつもりなど全くなく、呼吸を道標に、身体とマインドと連携をとりながら注意深く丁寧にやっていた。エゴを捨てて。
アシュタンガヨガのルールの中で、自分を育てているつもり満々だった。
もちろん、規律や先生を否定しているわけじゃない。アシュタンガヨガの素晴らしさは私も知っている。今でも辞めたつもりはない。
その道の先を歩いている先生だから、見えているものがある。連れて行ってくれる場所もある。
実際に、自分の殻を破ってもらったことは、何度もある。だからこそ、敬い慕って師事を受けていた。
でも、喜びそのものを、その先生と共にいられることや、その規律の中にいる安心感にしないこと。
先生という存在、もしくは他者や評価や成果など、なんでも、自分以外のものを喜びの対象にしないこと。
私はいつのまにか、それを喜びにすり替えて、ストイックに練習することを良かれと思って自分の肉体を支配下に置くために、ヨガの練習をしていた。
確かに、しっかり練習していると、生活リズムは整い(日の出と共に練習、太陽と共に生活し、月のリズムと共に休む)、身体も居心地良く、そして、プラーナもよく巡る。追い込むほど痩せて行くのも心地よかった。
それはそれで、良い◎
でも、プラーナと思っていたそのエネルギーは、ドーパミンの類ではなかっただろうかと今は思う。つまり、交感神経系の快楽や欲求。
プラーナが巡って心地よい…♡と言っても、あれはセロトニンではなかったような…と今となって思う次第。
コーヒー飲みながらヨガしてもいい。
途中休みながらヨガしたっていい。
身体の反応や意見を聞きながら、次の流れを決めたらいい。
朝ゆっくり起きてもいい。
やりたい時にやればいい。
しっかり追い込みたい時にはそうすればいい。
汗を垂らして息を切らし、限界を突破するための練習を毎日しなければならないと、決めつける必要はない。
ダメなことは一つもない。オールオッケーの世界線に立てるか。
避けた方がいいことがあるとすれば、何事も4次元(思考)で判断しないこと。
かと言って、エゴを捨てるだなんてことも必要ない。それすらもOKと許可できるか。選ぶ基準がそこではないってだけ。
まずは身体の欲求を聞くこと。
自分の身体の「快」の状態を優先すること。
心地よくいること、ただそれでいい。
身体が求めているなら、その規律に沿ってやるのはOK。アシュタンガヨガを求めているなら存分にやらせてあげる!
でも、身体の口封じをするために、規律に従わせるなんて、もってのほか。
まずそれができずに、自分の魂となんて繋がらない。だって身体が器なんだから。












